ドイツで生活するにつれ、日本語の「私」とドイツ語の “ich”との間に距離を感じるようになった。
二つの言語の中で生活し、読み、書き、話し、考え、夢を見るということについて考える。寝る前に日本語の本を読んだり、日本語でメールを打っていたりすると、夢もそのまま日本語になる。遅くまでドイツ語のテクストと格闘していたり、知人たちとドイツ語で話しこんだ夜は、ドイツ語で夢を見る。大抵の場合は、二つの言葉の間を行ったり来たりしている。
あまりにも陳腐な言説だが、言語はアイデンティティーを規定する。ドイツ語で話すときのわたしは、日本語で話すときのわたしとは別人である。とはいえわたしは「私」と “ich”というふたつのアイデンティティーを持っているわけではない。日本語の「私」とドイツ語の “ich”、そしてその周辺にうごめく無数の一人称たちが、時として反発しあいながら混ざり合う、その流動的な渦こそがわたしをわたしたらしめている。
わたしはバイリンガルではない。この歳になって、今後、バイリンガルに「なる」こともないだろう。仕事柄、バイリンガル・トリリンガル・マルチリンガルの人たちと触れ合う機会が少なくはないが、彼らのように複数の言語をなめらかに行き来するようなことは到底できない。「私」が“ich”になるとき、そこには摩擦があり、その摩擦によって暴力的に削り取られていく何かがある。とはいえドイツでわたしが「私」の輪郭をどんなに懐かしもうとも、ドイツに住み、ドイツ語で語ろうとする限り、わたしは「私」ではなく“ich”の姿をとらなければならない。
日本語とドイツ語のふたつの世界はわたしの一部であり、わたしを構成する要素であり、と同時にわたしは絶え間なくこのふたつの言語の狭間を漂い、ざらつきを残しつつも、根をはることがない。その流動性を、果たしてわたしはわたしの言葉でもって、すくい上げることができるのだろうか?