暴力的なほどの熱波でも、寒さが刺すように痛くても、今にも雨が降りそうな曇天でも、外に出る。ベルリンのTiergartenは、心を映す万華鏡のように、微かなグラデーションで、毎日その装いを変える。二度として同じ姿を見せることがないというその事実だけが、唯一の不変であるかのように。
都市で道がわからなくなるのは、それほどのことではない。けれども、森の中で道に迷うかのように都市で道に迷うのには、鍛錬を要する。
Walter Benjamin: Tiergarten. In: Ders.: Berliner Kindheit um Neunzehnhundert
(Sich in einer Stadt nicht zurechtfinden heißt nicht viel. In einer Stadt sich aber zu verirren, wie man in einem Walde sich verirrt, braucht Schulung.)
ドイツ人は驚くほど散歩(spazieren)をする。人に会ったとき、日本人ならカフェなりランチなりショッピングなりに向かいそうなところ、「じゃあ散歩でもしようか」と切り出されることも珍しくない。しかもそれが長い。4、50分はざらである。目的もなく歩く。ぐるぐると巡る。体を動かして、新鮮な空気を吸って、心を頭を落ち着ける。「健康のため」という表現すら陳腐に思われる、ほとんどある種の儀式のようですらある。何かに取り憑かれたかのように、街中のあちらこちらで繰り広げられている散歩は、彼らの日常に深く根付いている。
腰を悪くしたのと、食べ過ぎて太ったのと、太陽の光が恋しいのと、いわく言いがたい騒めきが忍び寄るのと。あれやこれやの理由をつけてわたしも散歩に出てみるが、結局そのうちの何一つとして、本当にわたしを駆り立てている原動力ではないのだろう。ベルリンの天気はいつだって不安定で、真夏日の暑さは肌をじりじりと焼くし、極寒の冷たさは皮膚の下まで入り込む。それでも、灰色の街は人を惹きつけてやまない。
大学の試験期間が終わったので、重い腰を上げてパソコンのデータを整理し始めた。なんでもかんでもクラウドに詰め込んで放置していたせいで、容量が一杯になりそうだったので。10年前の写真、9年前の申し込み用紙、8年前のレポート……。忘れていたことすら忘れていた化石たちが、パソコンから溢れ出てくる。いったいどうしてこんな無意味なガラクタを溜め込んでいたのだろうかと少し呆れながら、削除したり、フォルダを分けたり、バックアップを取ったりしている。
パソコンの奥底に、意味をなさない記号の羅列を冠したフォルダが眠っていた。たくさんの日本画のデータや、白紙の賃貸契約書のpdfや、行ったことのない日本の田舎の風景写真が入っている。そのフォルダのまた奥底から、明らかにわたしではない誰かが書いた小説が何編か見つかった。手を止めて、しばらく考えて思い出す。当時それなりに親しくしていた人が、パソコンの買い替えだか何だかの事情で、「万が一データが消えた時のために持っておいてほしい」とバックアップをまとめてわたしに送った時のものだ。一抹の後ろめたさを抱えながらワードファイルを開くと、小説の中の登場人物に、その知人の面影をはっきりと認めることができた。おそらくもう一生会うことのないであろうその知人の輪郭が、虚構の世界の中で、架空のキャラクターの形をとって立ち現れる。見るべきではないものをこっそり覗く背徳感と、若く甘酸っぱいその文章に、恥ずかしさと申し訳なさが混ざったような感情を覚える。そしてわたしは、そのデータを削除する。
郷愁は特定の場所や時間に向けられるのではなく、二度と繰り返されることのない一瞬を焦がれる力なのかもしれない。
わたしはここに、本当に大切なものを書かない。これまでの道程でどこを辿り、何を消し、何を消さなかったのかを書かない。上書き保存したものも、名前をつけて保存したものも、わたしの他に知るものはいない。だから、日々の時間の流れとともにわたしの記憶が少しずつ色褪せて、事実との乖離を見せるようになっても、その「データの劣化」をわたしは受け入れなければならない。寒空の下で散歩をしても、Tiergartenの片隅をあてどなく歩き回っても、同じ道を辿ることは決してない。