感染症と共存する日々

Note

前回の投稿から1年が経っていた。いちねん……1年! 早い。恐怖。そんなに時間が過ぎたのか……。

ブログから離れていた期間は目まぐるしかった。新居に移って間もなく、警察沙汰のトラブルに巻き込まれて再度の引っ越しを迫られ(当然ながらわたしは加害者側ではないです、念のため……)、仕事でも大きな変化があり、2019年の秋口から年明けにかけては、心身ともに休む暇がなかった。あのころの自分を思い返すと、基本的に躁か鬱のどちらかだった。まさか半年もたたないうちに2度も引っ越すことになるとは思わなかった。1つ前の記事に、新居での穏やかな日々に期待を寄せる言葉が綴られているが、当時の自分に声をかけてあげられるとすれば「あんた、その家、マジでヤバいよ」しかない。運と縁と親切な方々のおかげで、満足のいく物件を見つけることができて今は安心しているが、そこに至るまでの紆余曲折は、もう勘弁、二度と味わいたくない。ちなみに現在は、比較的中心地にあるアルトバウ(r. Altbau)のアパートに住んでいる。

転居と仕事のゴタゴタにけりがついたと思ったら、2020年前半はコロナ一色になった。特に3月~4月は毎日のようにドイツの状況が悪化していき、外出制限も課せられて、身も心も窮屈だった。どのメディアも例外なくコロナの話題ばかりで、それらを見たり/聞いたり/読んだりすると不安が押し寄せてくるからやめたいのに、毎朝目が覚めるとまず、ベッドの中でスマホを手繰り寄せてニュースをチェックするのが癖になってしまった。世界各地で膨れ上がる感染者数や死者数、それらを示す指数関数的に伸びていくグラフは、統計によって導き出された数値=厳然たる事実であることはわかっていても、この数字が生身の「人間」の数であると認めるのを拒否するかのように、脳の情報処理がなかなか追いつかなかった。そんな違和感は置いてけぼりに、次から次へと生活に制限が増えていく。そんなふうにして、2、3か月くらいは過ぎていったと思う。

コロナの情報に触れすぎない(もちろん、全く触れないわけにはいかないので、程よくセーブするようにした)ことを意識的に心掛けるようになってからは、「おうち時間」なるものを少しでも彩るべく、手間をかけておいしいご飯を自炊したり、(その当然の帰結としてコロナ太りしたので、)ストレッチやダイエット動画を見ながら宅トレに励んだりした。今はようやく落ち着いてきた……が、落ち着いたといってもそれは、「かつての日常に戻った」のではなくて、むしろ「コロナのある生活に半ば強制的に順応しつつある」という方が正しい。ただし周りを見ると、最近は、あたかもコロナなど最初から存在しなかったかのように振る舞う人もちらほらいて、こういう時でも自由主義と個人主義を徹底的に実行する彼らが羨ましくさえ思えるけれど、同時に曰く言い難い不安を抱かざるもえない。2020年の後半が一体どうなるのか、想像もつかない。

今年の抱負だなんて考える暇もなかった。抱負を掲げられるだけの見通しがなかったからだ。半年後はおろか、一週間後に自分が何をしているのかもわからない。健康で、衣食住が確保されていて、食いつないでいくだけのお金が手元にあるという、「最低限」が保障されているというだけで感謝しなければならない。(ただし、今後のビザのことを考えると、不安は募る。)

趣味で始めていたプログラミングの独学も、すっかりご無沙汰になってしまった。けれども果たして2020年は独学などというものに打ち込む余裕があるんだろうか?

いつか生活の基盤がもう少し安定したら、またプログラミングをやりたい。そしてたくさん本を読みたい。満足のいく衣食住の次に、文学と論理的思考。これらをちょうどいいバランスで享受できる生活がわたしにとっては幸せな形だと思う。心身の健康。精神の平穏。それさえあればよい。でもこれって、実はものすごい高望みなのだ。

画像はTegeler See(テーゲル湖)の湖畔から。はじめて行ったけれど、綺麗だった。自然の美しさは唯一無二だなあ。